野中広務氏死去 「遺骨の一部、嘉数の丘に」 沖縄へ絶えぬ思い


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官房長官退任で来県し、県職員から花束を贈られる野中広務氏(中央)と拍手を送る稲嶺恵一知事(左)=1999年10月22日、県庁

 野中広務氏は1998年7月、小渕内閣の官房長官(沖縄問題担当)に就任して以来、沖縄に積極的に関わり、沖縄振興策や基地政策で主導的役割を果たした。99年1月の自民、自由両党の連立政権発足に伴う内閣改造では沖縄開発庁長官を兼任。99年10月に離任した後も、自民党の幹事長代理、幹事長、沖縄振興委員長などの立場で絶えず沖縄に関わり続けた。

 2001年に名桜大で講演した際には、沖縄戦で犠牲になった京都府関係者の慰霊碑「京都の塔」が建立されている宜野湾市の普天間飛行場近くの「嘉数の丘」に自らの遺骨の一部を埋めるよう遺言に記していることを明らかにしている。

 沖縄は特別な地だという。1962年の初来沖時に、乗ったタクシーの運転手が「お客さん、あそこで私の妹は殺されたんです。アメリカ軍じゃないんです」と語った思い出を、全回顧録「老兵は死なず」の冒頭で記している。

 97年4月に米軍用地特別措置法改正案が可決された際は、同案を審議した特別委員会委員長として「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないよう」「大政翼賛会のようにならないよう若い皆さんにお願いしたい」と声を震わせて訴えた。

 98年2月、大田昌秀知事が海上基地反対を打ち出すと、それまでと一転して“大田降ろし”に走る。同年8月には、辞任表明した橋本龍太郎首相へあいさつに来なかった大田氏に対し「人の道に反する」と激しく非難。同11月の県知事選で稲嶺恵一氏を支援するため、全国の先駆けとなった自公協力の実現に力を注いだ。

 政府との協調を掲げた稲嶺県政が誕生すると、沖縄施策全般にわたって存在感を発揮。2000年サミットの沖縄開催について「戦争世代を生きた者の贖罪(しょくざい)」と述べるなど、沖縄への特別な思い入れを表した。

 13年4月には、政府主催の「主権回復の日」式典について「沖縄にとっては間違いなく『屈辱の日』。それを祝うというのは私には耐えられない」と政府を痛烈に批判した。