高校野球県大会23日開幕 強豪沖縄への成長実感 始球式務める安仁屋、石嶺氏


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 この夏、100回を迎える夏の高校野球史の中で、沖縄野球の一ページを刻んだ名選手が23日に開幕する沖縄大会の開会式直後の第1試合で始球式を務める。

 マウンドに立つのは安仁屋宗八さん(沖縄高校卒、プロ野球解説者)で、ボールを受けるのは石嶺和彦さん(豊見城高校卒、社会人野球エナジック監督)。

 高校野球が野球人生の原点と語り、一枚の甲子園への切符を懸けた球児の熱い戦いを、自身の高校時代の思い出を振り返りながら、「一戦一戦全力で」と応援している。

 (嘉陽拓也、外間崇)

■沖縄野球が飛躍

県勢として初めて南九州大会を突破し、甲子園出場を決めた沖縄高校のエース安仁屋宗八投手=1962年7月

 1958年、夏の甲子園大会40回記念大会に首里が招待出場して4年後、安仁屋が所属する沖縄高校(現在の沖縄尚学)は南九州大会を制して、沖縄県勢としては初めて実力で甲子園の地にたどり着いた。初戦の広陵(広島)戦は4―6で敗れたが、「甲子園で投げるだけで満足だった」という時代。安仁屋は大阪府大正区から駆けつけた県人会の応援と指笛に「勇気づけられた。感謝でいっぱいだった」という。

 その安仁屋が沖縄野球の一つの転機としたのが故栽弘義監督が育てた豊見城の1976年からの3年連続ベスト8だ。赤嶺賢勇、下地勝治、神里昌二と毎年、好投手を擁して甲子園に乗り込み、東筑(福岡)や広島商業など全国で知られる強豪を打ち崩した。

 当時、豊見城の強力打線の軸を担ったのが捕手の石嶺和彦だった。2年の春から4季連続甲子園に出場し、主砲として存在感を示した。3年最後の夏は準々決勝で岡山東商にサヨナラ負けするが、悔しさよりも「やっと高校野球が終わる。もう練習も試合もしなくていいんだ」というほっとした気持ちの方が強かったという。この言葉には、勝つ喜びと同様に、勝たなければいけないという重圧の中で戦った苦悩が写る。

 県勢の初出場から、およそ20年。それまで、ある種「沖縄びいき」に染まっていた観客の目を、豊見城の躍進が一変させた。

■栽監督の功績

豊見城の主砲として活躍した石嶺和彦選手

 安仁屋は社会人野球を経て、プロ野球の広島で「巨人キラー」として活躍しながら、高校野球も「県代表が出たら応援し続けた」。「豊見城旋風」に加え、特に印象に残ったのは沖縄水産の90、91年の連続準優勝だという。「準優勝のころから沖縄野球が大きく変わった。素晴らしい監督も多いが、沖縄が強くなったのは栽監督のおかげ。厳しい練習の末に、沖縄を沸かせてくれた」と振り返る。

 その栽監督の指導を受けた石嶺も、「栽先生の言葉や練習について、これはなぜ? 何のために? などと疑問を持ったことはなかった」と語る。「練習は厳しかったが、チームとして強くなる、選手として成長する方法を示していた。栽先生を信じてついていけば、勝てていた」という。

 石嶺は3年連続ベスト8に貢献したが、その当時のセンバツを見ると75年から4季連続で出場している。90回を数えるセンバツでここ20年間で連続は4季が最多。継続中の大阪桐蔭を含め、広陵(広島)、明徳義塾(高知)、天理(奈良)など8校しか達成できていない。栽監督の指揮の下、全国の強豪と戦った豊見城の常勝ぶりが分かる。

■球児へエール

 プロ野球時代、安仁屋と石嶺は2軍の試合で複数回対戦があり、懐かしそうに振り返るが、初対決の思い出は双方で異なる。安仁屋は初球を中前へ運ばれたと語り、「石嶺は実力ある選手で評判も良かったからね」とするが、一方の石嶺は「フルカウントから外角いっぱいのボールに手が出なかった。見逃し三振でした」と話す。ともに相手にやられた場面が鮮明に記憶として残っている。

 石嶺は2016年5月から、名護市の社会人野球チームエナジックで監督を務める。沖縄球児の実力を評価しており「高校時代から県外に出る選手も多く、少し残念な気持ちもあるが、全国から見てもそれだけ沖縄の選手のレベルが高い証拠だ」と分析する。

 プロ野球の解説者を務める安仁屋。沖縄がプロ野球キャンプ地のメッカとなった今「年中練習できる上に球場施設も整備され、プロの道も近くなった」と期待を込める。

 100回の記念大会で「大役」を務める2人。安仁屋は「全ての球児に期待するが、特に3年生は先を考えず、今このチームで一つでも勝ち進むために頑張ってほしい。そして甲子園で優勝してほしい」と深紅の優勝旗が再び海を渡る日を待つ。石嶺は「勝利は結果であって、それまでの準備が大切。仲間とともに白球を追った練習の成果を発揮してほしい」と、最高の思い出の夏へエールを送る。

安仁屋宗八氏

 安仁屋 宗八(あにや・そうはち) 1944年8月17日、那覇市出身。沖縄高(現在の沖縄尚学高)に入学後、62年に南九州予選大会で優勝し、県勢で初めて自力で甲子園出場を決めた。卒業後は琉球煙草に進み、64年にプロ野球の広島に入団した。75年に阪神へ移籍するも80年に広島へ復帰。81年に現役引退した。通算成績は655登板119勝124敗。現在はプロ野球解説者。

石嶺和彦氏

 石嶺 和彦(いしみね・かずひこ) 1961年1月10日、那覇市出身。豊見城高校進学後、2年の春から4季連続で甲子園に出場。77、78年に夏の甲子園で連続でベスト8入りした。78年ドラフトで2位となり、プロ野球の阪急に入団。オリックスとチーム名が変わったがその後も活躍。94年に阪神に移籍し、96年に引退した。通算成績は1566試合に出場し1419安打、269本塁打。現在は社会人野球エナジック監督。