「慰霊の日」直前に遺した言葉 元学徒宮城さん「苦しみ、悲しみ もう二度と」 


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平和学習会の前日、高校生らと一緒に踊る予定だった踊りの練習に笑顔で取り組む宮城幸子さん(右)と宮城千恵さん=18日(提供)

 沖縄戦の語り部で19日に死去した宮城幸子さん=沖縄県宜野湾市=は命が尽きるその直前まで、平和を願い沖縄戦を語り継ごうとした。戦時中、瑞泉学徒隊の看護要員として日本軍に従軍した幸子さんは19日、娘の宮城千恵さん(59)が勤める県立宜野湾高校での23日の「慰霊の日」に向けた平和教育講演会に孫の平良美乃(よしの)さん(25)と出席し、対談形式で体験談を語る予定だった。しかし会の開始直前に意識を失い、二度と目覚めることなく息を引き取った。90歳だった。 

 凄惨な戦世の記憶を風化させないように、子や孫に同じ経験をさせないように―。幸子さんが何よりも願った平和と反戦、伝えたかったメッセージ。千恵さんと平良さんは幸子さんの残した「遺言」を、代弁していくことを誓った。

 渡嘉敷島出身の幸子さんは1942年、旧県立首里高等女学校(41期生)へ入学。憧れのセーラー服を着て、学友と共に学ぶ喜びを体感するはずだった。だが、戦況の悪化により学生生活は打ち切られ、看護要員として戦場へ駆り出された。

 配属先の第62師団野戦病院では切断された人の手足を運び、負傷兵の排泄物やウジ虫を処理した。敗戦後、両親が渡嘉敷島の「集団自決」で亡くなったことを知った。今月1日に本紙取材にも応じていた幸子さんは、戦争で奪われた青春時代の記憶をたぐり寄せた。

 「あの時代を生きた誰もが苦しみ、悲しみ、胸の傷をかばいながら生きてきた」。生前の幸子さんは常々そう語り、今もなお続く沖縄の過重な基地負担を憂いていた。

 「母が最も恐れていたのは沖縄戦が忘れられ、再び戦争が起きてしまうことだった」と語る千恵さん。講演会の前日夜まで幸子さんと準備に励んだ平良さんは「祖母は高校生たちに『戦争が起きたら、一番に戦場へ駆り出されるのはあなたたち。だからこそ平和を大切に、みんな仲良く生きてほしい』と伝えようとしていた」と振り返る。

 「戦争を憎み、平和を愛したばあちゃんたちの思いを、何としてでも後世へ伝えていかないと」。千恵さんと平良さんは、幸子さんの遺志を引き継いでいく。 (當銘千絵)