妹2人、刻銘やっと 金武・山川さん 「生きた証し残せた」


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妹2人が追加刻銘された平和の礎を初めて訪れた山川信子さん=23日午前、糸満市の平和祈念公園

 「トミ子、敏子、遅くなってごめんね…」。金武町の山川信子さん(86)は23日、妹2人が追加刻銘された糸満市摩文仁の「平和の礎」を訪れ、声を詰まらせながら語り掛けた。3年がかりで戸籍を訂正し、2度目の申請で追加刻銘が認められた。礎の前で手を合わせた山川さんは「妹が生きた証しを残したかった。やっと責任を果たせた」と柔らかな笑顔を見せた。

 山川さんはフィリピンで生まれ、太平洋戦争の開戦前に家族の中でただ1人帰国した。1945年夏、両親に続き、7歳だった妹のトミ子さん、5歳だった敏子さんが現地で亡くなった。しかし戦後の混乱もあり、妹2人は戸籍から漏れていた。平和の礎には両親の名前はあったが、妹2人は無かった。
 「寝ても覚めても忘れなかった」妹の存在。「同じ戦争の犠牲者なのに、妹の名前が無いのはおかしい。どうしても2人を刻銘したい」。追加刻銘の申請は一度、県に却下されたが、山川さんは3年ほど前から、渡航者名簿や写真、叔母や叔父の証言を収集。裁判所に戸籍の訂正を申し立て、昨年11月に認められた。県に再申請し、今春、やっと思いがかなった。
 その矢先、山川さんは体調を崩して入院した。医師には「慰霊の日は絶対に摩文仁に行きたい」と伝え、ペースメーカーを付けて6月8日に退院。23日朝、子や孫ら10人で平和の礎に向き合った。
 「金武町 字伊芸」の下に妹の名前はあった。山川さんは手で文字をさすり、菊の花を手向けた。正座し、「みんなで来たよ。お父さん、お母さんも礎にいるから会ってね」と、震える声で語り掛けた。「妹たちに、平和な世の中を味わわせてあげたかった。二度と戦争を起こさないでほしい」と山川さん。涙が頰を伝い、ぽとぽとと落ちた。
 (真崎裕史)